昭和52年01月01日 朝の御理解



 御神訓 一、「天に任せよ、地に縋れよ。」

 「私は今朝三時半にここの庭に出て、天地を遙拝しますが、今朝は殊の外寒い冷たい朝ですが、天地に向かって合掌して、御祈念をさして頂いとりましたら、こちらの右の腕から何かこう、太陽の光を浴びる様に暖かぁになって参りましてね。もうこの右腕からずうっと体全身に暖かさが伝わる。それはもう不思議な不思議な事が、今朝からございました。まあこうして信心をさせて頂いとりますと、色々普通では考えられない様な、不思議な事が時々ございます。
 けれども、まあ天地のエネルギ-とでも申しましょうかね、そういうその力とか働きに触れる時に寒さは寒さでなく、暑さは暑さでない。ある時にはそれこそ、椛目時代でしたが、それこそ背中に汗が、ダラダラ流れる様な熱い、椛目のお広前は暑かったですが、もう本当に、ヒンヤリ今の様に冷房なんか有りませんからね、涼しい冷たい風が吹いてきてもうびっくりした事がございましたが。
 神様の働きの中には様々な働きが有る、その様々な天地の働きに私共が合わせて貰う。その天地の働きを頂くという事、私は今日その事を神様に控へ退ってからお礼を申さして頂いとりましたら、私共は金光大神を頂くという事を申します。金光大神の信心を頂くということはどういう事かと言うと、金光大神を頂くという事ではないね。金光大神のお取次ぎに依って、金光大神のお取次ぎに依り、金光大神のお庇いを受けて天地の親神様と一つになる道を教祖金光大神は体得された。
 金光大神のお取次ぎを頂いて、そして金光大神のお庇いを受けて天地と一緒になる、天地の親神様のおかげを受けるという事、天地の中にある不思議な様々な働きを夏でも涼しい冬でも暖かいといった様な、いうなら働きです。それを身に受けるという事それがお徳を受けるという事なんです。
 私今日は本当にこれは成程金光教の金光大神を頂く、金光大神のあられ方といった様な事を申しますし、またそのあられ方に神習うと言う様な事を申しますけれども、実はそうでは無い。金光大神のお取次ぎに依って又はお庇いを頂いて天地の親神様と直流する。直ちに天地の親神様と交流する所の働きを受けるという事が金光教の信心です。教祖様はそこんところを天地金乃神と同根と、天地の親神様は言っておられますよね。
 私共人間が中々その、天地と私共が直流する等という事は出来ないけれども、そこに所謂、御神徳を受けられた、また天地の御信任を受けられた、神様から、いうなら一礼申すと言われる程しの御神格御神徳に依る所のお取次ぎを願う。何処をお取次ぎを願うかというと私共と天地の親神様とが交流が出来る様に交流の取次ぎをして下さるのです。所がこちらには不純な物ばかりがあって中々天地と一緒になれない。
 いうなれば、天地が水であるならば、私共も水であればね、交流がすぐ出来るのですけれども、天地は水であるのに、こちらは油の様な状態ですから、中々一緒に混ざらない。そこんところを、私共が純粋な信心と言うのは、所謂、天地の心を心としてという様な事になってこなきゃならん。天地の心を心としてと言う事は、神様の心を心とするという事なんです。そこにいうならば、天地が水ならば、私共も水に近い状態になる、それでもまだ不純な物がありますから、一緒になれない、そこを金光大神がお庇い下さって、できておらん、出来た様にして、天地と私共とのつながりを作って下さる。
 そこに天地の神様のおかげが受けられる様になると言うのでございます。そこでです、天に任せて地に縋るという事は、天に任せておる時にはもう天地と、もう言わば同じなのですけれども、その任せておる自分自身の、言うならば不純物というかね、不純な物が有る所に、地に縋らなければ出来ない、又は地に縋らなければおられない、という事になって来るんです。
 金光大神のお取次ぎに依ってですよ、金光大神のお庇いを受けて私共は天地と一つになる道を、教祖は打ち立てられたという事になります。この辺の所が分かって参りますとね、言うならば所謂天地との交流、ははあ御神徳を受けるという事はこういう事だなあと又改めて分からせて頂きました。そして天に任せて地に縋るという事は、もうどうにも仕様が無いもう神様の前に無条件降伏をして両手を上げるより他にないと、まあいう様な時に天に任せて地に縋ると。
 善導寺の原昌一郎さんが、もういよいよ難しい、今晩がもう峠と医者も言わば匙を投げ、親戚の者はもう葬式の準備をして集まって来る、という様にひどい時にあちらのお父さんが丁度夏でしたが、ランニングシャツ一枚で、もうそれこそもうブウブウやって善導寺から、当時の椛目にお願いに見えました。丁度お月次祭の晩でお月次祭が終わっておる所でした。そして、」どうぞ家の昌一郎が助かるか助からんか、先生ハッキリ言うて下さいと。もう言うて頂けば諦めもつきます。
 助かる者は助かる、助からん者は助からんと、もう半分は諦めとりますけんという様な、もう意気込んで私にそう言う、まあお取次ぎを願われました時に私が申しました。もう半分が仕舞えて、半分諦めとるならもうあんた仕舞えとるじゃないか。そんな事言わずに家に帰って、あなたん所の裏の畑にどん座って、それこそ天に任せて地に縋り、天地に縋りなさい、と言うて、もう私はそれこそ大きな声で気合を入れました。
 それから又ブウブウやって帰って、それこそ天に任せて地に縋る、一生懸命の信心をなさったら、言わば次の日から持ち直して、もうそれこそ不思議な不思議なおかげを受けて、今日の様な健康なおかげになってまあ此処で楽の御用を頂いておられる方です。笙のおかげを頂いておられる方の話です。
 そういう時に言うなら、本当にどうにもこうにも仕様がない、神様の前に両手を上げて、言うならば無条件降伏の時に、いうなら天に任せて地に縋りなさい。もう任せてそして地に縋りなさいという様な時に、この御教えは、非常に何か知らん力がモリモリと頂ける様な感じが致しますね。
 此処二、三日は毎日の様に言っております。久富正義先生が、今日のおかげを頂いて、本当に日勝り月勝り年勝りのおかげを頂いて、そして本当に、金光様の信心をすりゃ、ああいうおかげが受けられるじゃろうか、と言う様な言うならおかげの手本を頂きました。だからこれからは、代勝りのおかげを頂かなければならないよと。代勝りというのは、今の様な信心じゃいけないよ、只日勝り月勝り代勝り、あんたが居る間は段々こうやって繁盛のおかげを頂くだろうけれども。
 それが子に孫に伝わって行く為には、言わばあの世にも持っていかれ、此の世にも残しておけるもんじゃなからにゃならん。代勝りのおかげというものは、そう言う事なんだと、頂いて、本気でこれから、代勝りのおかげを頂かなければ成らんという、精進がなされとります。
 仕事の上でも、自分の健康の上でも、本当に天に任せて地に縋らなければ居られない様な所を通って、今日のおかげ。時に頂いたお歌がです、『天に任せて地に縋り 忍べ折れるな若竹の節』というお歌であった。天に任せて地に縋る、言うならば、もう本当にどうにも仕方がない、もう神様にお縋りするより外に仕方がないんだと。そういう時にこの御教えを頂きますと、なにかこう大地と繋がった様な、底力が湧いて来て、何かモリモリするようなものを感じる様な御教えですね。
 天に任せて地に縋る、実に素晴らしい何ともいえん底力の有る御教えです。人間もうどうにも出けない時、もう任せて縋るより他ないんだものね。だから今日はそこん所を、そういう風に頂くのではなくて、今日私が不思議な不思議な、今日の寒い、この廊下にて天地の遙拝をさせて頂いとりましたら、この右の腕からそれこそ太陽の熱を受ける様な感じがした、と思うたらずうっと右の腕から、体全身にその暖かさが広がって、何か言うならば、背中までがぽかぽかするような感じのね。
 まあ不思議な働きを受けて、ああ是が天地の真に通うとき、天地の親神様の言うならば、真の働きに触れる時に、椛目で体験をした、夏でも冷やあっとする様な、それこそ氷の様な冷たい風が吹いてきて、もう不思議に思う事が有ったが、夏でもいうならば涼しい、冬でも暖かいそういう働きを持っておられる天地。そういう天地に繋がる時にです。   私はその事の不可思議さに、その事をお礼申さして貰うたり、どういう事であっただろうかと思って、御祈念をさして頂いとりましたら、控えの方で、私共がおかげを受けるということは、金光大神の御取次ぎを頂いて、しかも金光大神のお庇いを受けなければ、私共は天地と交流する事は出来ない。なぜかと言うと、余りにもこれが汚れ果てておるから、いうならば天地に任せるというても、なら任せるという事は、もう神様と一緒になるということなんだけれども。
 天に任せてはおるけれども、所謂地に縋らなければ、汚い私でございますと。汚れ果てた私でございますと。いうなら屑の子に自覚に立たせて頂いて、お詫びをする気持ちになる所から、金光大神のお庇いを受ける事が出来る。汚れておるけれども、穢れておらんものの様に、かえって金光大神のお庇いを受けて、天地との交流を図って下さる。そこに私は金光教があると思うです。
 何か今日のご理解を私は頂きながら、今日の事に触れて、金光教が一回り一段大きく成った様な感じが致します。金光大神を頂くのじゃない、天地を頂くのです。そう言やあ私の事を、生神様とか、金光様とかという人達が段々増えて来たが、この頃は親神様、親神様と言う人達が増えて来たことに、私は驚いとる事実があるのです。だから実をいうたらね、その親神様との交流が出来ておる時には、もうその親神様と同じなんです。
 これはだから、私だけの専売特許ではなくてです、生神金光大神か、教祖金光大神さまの専売特許とか、もう金光教祖様だけしか受けられない、と言うのでなくてです、皆もその通りが受けられると仰る様に、天地の親神様と同じ、同根という事のおかげは、私共でも頂かれるんだという事です。天地と同根とそれが〔聞き取り不能〕天に任せて地に縋る時に、金光大神の取次ぎの働きが始まる。
 金光大神が庇うて下さる、そして天地と私共との交流がある。特に例えて申しますと此の極寒にです、それこそ体全身が、しかも廊下の冷える所でです、所謂ポカポカする様な、暖かさを感じれる程しのもので有るという事。天地の働きというものは、そういうものだという事なのです、まだまだ不思議な働きがいっぱいあります。天地の中には。その不思議な働きと一緒になれれる、不思議な働きと一緒になる。
 私共は、中々清まった上にも、清まった様にあるけれども、神様の目からご覧になれば、まあ汚れ果てた私共でしょう。けどもそこを、金光大神がお庇い下さり、そこを庇うて取次いで下さる。そこに神様と私共が一緒になる。そこを、天にまかせるという事で有ると同時にです、我れ屑の子の自覚、私の様な者でもという、その平身低頭、所謂大地に縋るという姿です。そこに成る程、生身を持っておる人間がさせて頂く宗教である。しかもそういう、言うなら私共であってもです、凡夫の私共であってもです、屑の子の私共であってもです。
 天地と交流出来れる様な、手だてというものを、金光大神のお取次ぎに依って頂く事が出来る。天に任せよ地に縋れよという事は、いよいよギリギリ、土壇場に入った時に、私共がこの御教えを頂くと力が湧く。底力が出来る。ままよという度胸も出来る。という意味あいに頂く時と、今日皆さんに聞いて頂いた様な、天と地と一つになれれる手だてをです、金光大神の取次ぎに依って、又は金光大神のお庇いを受けて、天地と一緒になれれる。そういう深い意味の御教えでもあるという事を、聞いて頂きましたね。
   どうぞ。